2008.06.07
梅津 時比古
私の家では、毎日新聞をとっていますが、毎日の音楽編集委員で
梅津 時比古さんという方がおられ、夕刊の「音のかなた」へというコーナーで
いつも」素晴らしい文章を書いておられます。
今週の水曜日に載った「シャガールの風」全文をご紹介。
だるそうな雨の気配が空を覆う。
蒸し暑くても、少し寒くても、梅雨どきは、水を含んだ膜のようなものが肌にまとわりつく。
そんなとき、風が吹くと救われる。
雨が降り始めたなか、静岡県立美術館へ「シャガール展 色彩の詩人」を見に行った。
初期の作品に「雨」と題した習作があるのを初めて知った。
中央にゆがんだ粗末な木の家があり、その前を白い傘をさした男が通りがかっている。
屋根の一部と地面のすべてに雨がたまって、青に塗られている。
黒い空に巨大な雨粒のような丸がいくつか浮かび、画面左上のほう、空へ向かって、
白い服とヤギが今まさに飛び立とうとしている。
その浮遊感が塗り込められた雨のうっとうしさを一掃している。
そこに風を感じた。
シャガールの絵には、人が空を浮遊しているものがいくつもある。
恋人のべラと抱き合って空を飛んでいる有名な「街の上で」、
婚約者とシャガールと彼の故郷のロシアのユダヤ人村の上空に、
バイオリンを弾きながら男が飛んでいる「青い顔の婚約者」等々。
その原点がこの「雨」にあったのだ。
今までシャガールの絵は、初めから人が浮遊しているものと受け止めていた。
それは豊な色彩に満ちていることもあって、幸せを象徴する表現と言われている。
しかし空に飛び立つためには風が必要なことに、「雨」を見てて気付いた。
相当に強い風が。
なぜ、風が立つのだろう。
「雨」に描かれた木の家も故郷の情景であろう。
しいたげられたユダヤ人村への思い、べラとどうしても結婚したいという切なる思い、
それらが祈りのように強い思いとしてあるに違いない。
ユダヤ人村にはバイオリンが付き物だったが、それは迫害を受けたときに
容易に持ち運んで逃げられるからだ。
バイオリンはシャガールの絵にしばしば登場し、印象づける。
ところが、本来4本あるはずの糸巻き(弦を止めるネジ)がなぜか3本以下しか
描かれていないことが多く、弦もしばしば切れている。
それは歌おうとしても十全に歌えないほどの大きな悲しみを背負ったバイオリンなのだ。
その歌への祈りのような渇望が、風を巻き起こすのではないだろうか。
一見、幸福な浮遊感の背後には、それだけ深い悲しみがある。
会場を出ると、雨が降りしきっていた。
時折、木の枝をたわませて水をぶちまけるように重い風が吹いた。
その風に乗せられ、どこかに連れていかれるような気がした。
梅津さんは「セロ弾きのゴーシュ」の音楽論で芸術選奨を受賞されておられ、
詩的音楽論は素晴らしく、うなるような文章です。
今回の「シャガールの風」という季節にあった短い文章だけで思わず、シャガールの世界に
引きずり込まれ、展覧会に行って見たくなります。