2008.12.07
東京ステイ12月 その2
山田 守は、岐阜に生まれ、東大の建築学科在籍中に当時前衛としての
建築運動であったウイーン分離派の影響を受け、石本喜久治、堀口捨己らとともに
分離派研究会を立ち上げました。
後に山口文象も加わりますが、石本喜久治は現在の石本建築設計事務所の創始者であり、
山口文象はRIA(アール・アイ・エー)の創始者となります。
山田は、卒業後、逓信省(後の郵政省と電々公社とKDD)に入り、
電信局・電話局や郵便局、逓信病院などを設計、なかでも
東京中央電信局(1925)や東京逓信病院(1937)は、戦前の日本の近代建築として
建築史上高い評価を受けています。
東京中央電信局では分離派の影響を強く受けた造形的なものであったのに対し
東京逓信病院では、一転して機能主義的建築へと変貌します。
戦後は、設計事務所を青山に開きACTIVE OLDMEN ASSOCIATE(AOAビル)
というオフィスを構えます。
病院建築の創始者として東京、大阪厚生年金病院(1954日本建築学会賞受賞)
などの数多くの病院を手掛けるとともにウルトラマンでのバルタン星人との戦いの
舞台として有名な無梁版構造(フラットスラブ)の東京都水道局長沢浄水場(1957)や
日本武道館(1964),京都タワー(1964)など数々の著名建築を手掛けました。
晩年は、表現主義的作風が外観に強く反映されたように思います。
曲線の山田とも言われ、もともと、外観の造形に強いこだわりがあった反面、
内部の空間性にはあまり興味がなかったように思いますが、武道館の天井デザインは、
表現主義的であり強い個性を感じます。
没後、子息の山田達郎氏が継がれ、それまでのアトリエ的な体制から組織事務所への
転換に尽力され現在に至ります。
わたしが入社したのは、山田守没後で、学生時代に曲線の大石と呼ばれ
造形デザインに興味を持って入ったものの
建築における機能を徹底的にたたき込まれました。
恣意的である曲線に必然性が得られない理屈から
曲線はわたしの中で次第に影を潜めていきましたが
現在の建築の潮流は、コンピューターを使用した三次曲面による新しい建築が
もっとも前衛であり、もう自分の中で「べからず」はつくらないほうがいいと考えています。
長くなりましたが、17年間在籍した山田守建築事務所の創始者 山田守について
紹介しました。
東京ステイつづく----------。