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フランソワ・トリュフォーの映画「隣の女」も観ましたが
最後の結末にびっくり!
その時に以前観た映画の終わり方に似ていると瞬間思いました。
最初はどういう映画だったかすぐには思い出せなかったのですが
記憶を呼び戻していると確かジャンヌ・モロー主演の「突然炎のごとく」の
終わり方に似ていると思ったのでした。
それはあくまで感覚的な印象なのでうまく表現できませんが
なにか似ていると思ったのです。
そこでネットで調べてみるとこの映画の監督もトリュフォーでした。
「アデルの恋の物語」もそうですがトリュフォーが描く映画は
抑えられた表現、展開の中で狂おしいほどの愛がテーマになっており
トリュフォーという人の優しそうな印象とは違い過激です。
かれの人生をウイキペディアで調べると彼自身が非常に繊細であるが故に
生き方も過激であったことがわかりました。
そこで思うのは表現者が
社会性のある制約の中で自分というものを表現する場合、
良くて60%ぐらいしか表現できないということです。
最近、巷では大谷翔平の大リーグでの活躍が取り上げられていますが
翔平の高校時代は監督から試合で120%の力を発揮させるには
180%の練習をしなければならないと言われていたそうです。
スポーツには自分の力を発揮させるために練習という手段があり
我々のような建築で表現を行っているものは100%の能力を
発揮させるためにどのようなことを行ったらよいのだろうかと
考えてしまいました。
トリュフォーのように生き方そのものを過激にはできないし-----。
草間彌生のように変なオバサンにもなりたくないし------。
そこで考えたのは、我々建築の世界ではこれまで造ってきた作品として
展覧会のようなものはありますが、これから表現したいものとしての
ファッションショーのようなものはありません。
施主もいないし、敷地もないけれどこんなものが造りたいという
ような表現の場があれば、創造的な訓練の場になるのではないか。
そこでは取りあえず社会的制約から解き放たれた過激性としての
表現を要求する-----–。
トリュフォーの映画を観てそんなことを考えさせられました-----。
     

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